『犬はどこだ』を読んだ
『犬はどこだ』(著:米澤穂信)
(作品概要)
元銀行マンの肩書きを持つ主人公 紺屋 は、出世競争から転落したことをきっかけに生きる気力を失っていた。祖母に諭されて戻ってきた地元で気まぐれに探偵事務所を構えてみると幸か不幸か、即座に人探しの依頼が舞い込んでくる。依頼遂行中、失踪人の残した手掛かりを辿って事件の真相に迫る過程で、紺野は自身の人間としての本質に気づいていく、という話。
(批評・感想)
端的に言うと、微妙。後半は見所が多くて悪くないが、問題は前半である。ミステリーの設計を意図する説明的な展開が露骨であり、人物の思想に繋がらない無駄な言動・仕草が目に余る。米澤穂信らしい洗練された情緒的な表現を本作ではあまり味わえなかったことが個人的には非常に残念。
作品としては満足に足るものではなかったものの、局所的に評価できるポイントがいくつか存在する。具体的に挙げると、巻末のコラムにもあるように多様な文体を一つの物語に無理なく内包している点は文学的に優れた技巧を体現したものであり、流石という他ない。作中に登場するいくつかのテキストから得られる印象、チャットやブログのコミカルさや文献の重厚さが物語に広がりを生み出している。
以下、俺の琴線に強く響いたセンテンス
──俺はあらゆることに生半可であり、どんな分野においても半端者だ。
──だからだろう。過去、実に二十三年間、こうした体験をしたことがなかったのは。つまり、知識が認識を変えるという体験を。
──刀折れ矢尽き、ただ逃げ続ける失踪さんを、私は哀れんでいます 同病相憐れむように
──間に合わなかった場合、骨を拾ってやりたい
──同じ敗残兵のよしみです